八幡山の御神体

当八幡山は、京都市下京区に在った「若宮八幡宮」が、東山五条に遷された後に、当町内に分祠されて祀られたようです。

町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれている。

はちまんやまのおうじんてんのうきばぞう

お社(小祠)の中には、運慶の彫り物である、応神(おうじん)天皇騎馬像を拝しております。

はちまんやまのおやしろ

お山に、当町内の自慢の八幡宮(小祠)を勧請し、毎年7月24日の京都・祇園祭・後祭(あとまつり)山鉾巡行に参加して居ります。この小祠は、総金箔を施したもので、天明年間(1781~1788)の作と伝えられ、向拝は唐破風 になっており、桧皮茸風に綿密に屋根面は刻まれ、枡組(ますぐみ)、蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)の犀象(さいぞう)、獅子等は極彩色で、 面取の向拝柱、五級錺金具付き階段は基壇とも金箔押し、組勾欄は朱塗りで鍍金擬宝珠付き、両側脇障子には極彩色の雲中登り龍、降り龍彫刻が全面に施されています。 祇園祭山鉾巡行当日は、この小祠をお山の上にお載せして参ります。寸法:幅64cmX奥行62cmX高さ100cm

はちまんやまのごしんたい

ひろく、みんなに親しまれている、日本中の数万の「はちまんさま」はどこもみな、応神天皇を御神体としています。応神天皇は、実在の天皇の中では最古とされています。

神功皇后が、神懸かりでお産みになったので、王神――応神となりました。

豊前の国(今の大分県宇佐)にて、「我は15代の応神天皇なり」と宣言して、近畿から、西日本一帯を平定して、4世紀末の優れた王との記録が有ります。(今でも、全国の八幡さまの総本社は大分県の宇佐八幡宮となっています)

このように、軍事的な勢いから、応神天皇――八幡神とされてきました。

源義家が「石清水八幡宮」(京都府八幡市)にて「八幡太郎義家」を名乗り、その後鎌倉幕府が「鶴岡八幡宮」を篤く祀ったことから、ますます八幡さまは、武将の神様、戦の神様、勝負の神様となってゆきました。

その、石清水八幡宮は、平安京が造られた時の南方の守り神として祀られました。

その頃から、伊勢神宮と並んで、皇室や、平安京の守護神となり、火の神、水の神、母子の神として、武将以外にも、広く民衆に慕われるようになって、津々浦々の街々に祀られるようになってゆきました。

当「八幡山」では、この歴史深い「応神天皇」の騎馬像(運慶作)を総金箔が施されたお社(1780年頃)にお納めして町会所にてお祀りしています。